克服:告知からの3年間

乳がん

訪問して頂きありがとうございます。

 私は乳癌ステージ4と診断されており、おひとり様でもあります。社会人として頑張っている子供たちが2人おり、彼らの声援に感謝していますが・・・。

 大病を患うことで、人生のさまざまな側面において深く考えさせられる日々を送っています。健康に対する感謝の気持ちや、今まで当たり前だと思っていたことの尊さを再認識しています。同時に、自分自身の強さや精神的なタフさにも挑戦しています。

この病気と向き合いながらも、子供たちに少しでも心配をかけず、前向きな姿勢を保ちたいと思ってもいるのですが。

 2年ぶりのブログになります。この2年間は、障害者手帳や障害年金の手続きから始まり、息子の彼女との別れ、そして新たな女性との結婚、そして孫を迎える喜びまで、私の人生は様々な局面で目まぐるしく変化しました。娘の引っ越しや私自身の転居。その中で再就職も果たしました。

 人生は予測不可能で、まさに目まぐるしいものでしたが、まだまだ私の冒険は続きます。

まだまだ人生は終わらせることなどできないという思いが私を前向きにさせてくれています。

とは言うものの・・・・・裏腹な想いも抱くこともあります。

 今回は、仕事への復帰が実現できるまでに至った経緯をお伝えいたします。

このブログを読むときっと

                                     健康に気を配るでしょう

                                     身体を労るでしょう

                                     勇気が湧くでしょう

                                     笑えるでしょう

                                     考えさせられるでしょう

                                     無性の愛を知るでしょう

                                     このブログでわかることは

                                     何より”健康が1番”だと

喜びと葛藤、支えと孤独

 杖を頼りに歩いていた私が、今では小走りでき(自分なりの)介護の仕事も微力ですがこなせるようになりました。

“動けるようになってしまった”と思うこともあり、”動けるようになってしまった”という表現は、誤解を招くかもしれませんね。「なってしまった」という心の片隅にある思いは罰当たりでしょうね。「うれしい限りです」と言いたいのですが本音を言えば、誰かに支えてもらいたいという思いが胸に広がります。

「だれか私を看て」と頼りたいという気持ちもあります。

 動けるようになることは本当に本当に嬉しいことです。喜びの中に混じって、「なってしまった」と思ってしまうこともありますが、それは過去の自分との対比からくるものでしょう。誰かに支えられながら成長してきた自分を振り返り、頼りたいという気持ちが強くなります。

生きるのもしんどいです。

 約30年間、二人の子供に尽力してきましたが、私を看てくれる気配はなさそうです。 仕方がないか、私も親に何も還元していないです。やはり、子供たちは親の背中を見てるのでしょう。

就職への願望

 告知から骨転移による腰椎圧迫骨折による腰部脊柱管狭窄症。脊椎7カ所骨折。転移箇所はあちらこちらにあり。スムーズに動けなくなりました。

 1年もの間、骨折と抗がん剤の副作用で私はほとんど動けませんでした(寝たきりではないものの)。抗がん剤治療があまりにも辛く、6回の治療で中止し。中止後、苦しみから解放され浮腫みも減少、徐々に身体を動かせるようになりました。できる範囲でストレッチ、スクワット、ヨガなどの運動を積極的に取り入れ、がん細胞を撃退するためにも努力しましたが・・・そんなに変わりはなく「このまま動けないと働けない」「この先どうしよう」と不安になり思い悩んだ末、 身体障害者手帳でももらえたら… .と頭をよぎりました。もしかしたら手帳がもらえるのではないかと思い、肢体不自由の7級に該当するのではないかと期待しました。ケースワーカーや医師には、「難しいかもしれない」「期待はできないかもしれない」と言われながらも、診断書を書いてもらい相談に向かいました。 仰しゃる通り。7級にも該当せず。「どうして障害手帳が必要だと思ったの?」と看護師に尋ねられました。しかも不思議そうな表情で。

 自分の身体の制約を考慮し、動けない体では、介護業界はもちろんのこと。どの業界でもスムーズに動けないと無理だろうから、障害枠から就職したいと考えた末でありました。

 できれば介護業界に就職し、あと3年半の実績を積んで、ケアマネの資格を取得できたらいいなぁと目論見的な愚かな考えでした。本当、恥ずかしい限りです。

自己鍛錬と生活の変化

 整形のドクターに無理だったことを伝え、「障害者にあてはまらないということはもっと鍛えたら治るっていうことですか?普通に動けるようになりますか」と尋ねたらば、「以前のようにではなくても今よりずっと動けるようになりますよ」と励ましの言葉を頂きました。

 でもよく考えてみると、もし障害があるなら医師も何か言うはずだろう。私ってほんと愚か。でも、なぜリハビリや体操やらアドバイスは無いのだろうと思ったが、なぜ? 多分。多分ですよ。ガンが転移した骨は骨折しやすいから、アドバイスしたところで骨折でもされたら責任持てないからなんだろうなぁと勘ぐってしまいました。(現在。勤めている病院のドクターはそういう人である)

「それじゃあ、自己責任ということで転倒しないようにもっと鍛えてみよう」と、取り組みましたよ。

 まず何ができないかを確認した。

「待てよ。その前に杖だ。この杖が私は甘やかしてる」と思った。

この杖は、告知もされ、腰椎圧迫骨折で思うように歩けない頃に、息子が初めて私のことを想って買ってきてくれた杖。思いきって杖なしで動くようにしました。今は大事に保管しています。

 私が持っている筋トレや体操の本からとラジオ体操を1日3回行いました。ほぼ毎日1時間の杖を持ちながら(念のため)の散歩し、自信ついた頃に杖なしで散歩も実践し、時折ヨガやジャンプの真似事なども取り入れました。かかと落としのような動作も取り入れ、できる範囲で午前、午後にそれぞれ1時間ずつトレーニングを行いました。

慣れてきたら、時間を徐々に延ばし、同時に可動域も少しずつ、「もう少し」と拡大させていきました。

最初のジャンプは、つま先立ちのような勢いだけジャンプの真似事。1ヵ月もかからず、少し体が浮いてきた。1センチあるかないか位。今はどれくらいだろう。体が重くて、いまだにジャンプの真似事のような感じです。

 そんなこんなで告知から2年が経ち、息子と娘は既に独立していて、家族3人で暮らしていた3 LDKは私1人には広すぎるし、収入もなく生活費も厳しくなり、引っ越しを決断しました。3 LDKから1Kへ引っ越し。部屋はいびつで不規則な形状。三人分の食器も捨てられず、寝具も捨てられず、けっこう荷物も多くて引越し業者からは「1Kには収められないかもしれませんよ」と言われる始末。それでもなんとか収って布団を敷くといっぱいいっぱいの部屋。キッチンも1口コンロでシンクも小さく大きなまな板を洗うのが一苦労です。

 引っ越しの荷造りと返却する部屋の掃除。新居の掃除。引越しの手続きの手配やら。

 そうそう、新居を探すときネットで某ーモで探して内見を予約し、某不動産からのメールで某不動産が担当になり出向きました。3件の内見の予約してるはずが「あれもこれもありません」「空いていません」だって。じゃあなんで予約させたと怒りたくてもなぜかため息ばかり。「なんか騙されたみたい」と心の声が出てしまいました。「これならどうですか」と勧めてくるのは古い物件ばかり「出直します」と。若いときはハラワタ煮え繰り返って怒ってたな。今はもう怒りのエネルギーも湧かない。

 そんな事もあったおかげか、新居は富士山が見えて、見晴らしの良い物件を見つけることができたのは良かったです。住み心地は微妙ですが。

色々なことを1人で決断してスムーズに行かないと生きてるだけでストレスと思ってしまうこともあります。

自身の再生と克服の歩み

 新しい住まいへの荷造りと掃除で精神と身体が鍛えられたのでしょう。私の身体の動きに自信を与えてくれました。

戻れる!仕事に復帰できると自信がついたのです。

「よし!後は労働時間のシミュレーションしてみよう。」

 最初は、3時間休まず歩き続けることに挑戦。 できた。これを1週間続けました。

今度は4時間。できた。1週間続けました。クリア!

そして、6時間の長時間の歩行や街への冒険。1週間続けました。クリア!

できた。乗り越えました。

次は8時間を1週間。(中休み1時間)仕事のつもりで!

できた。できるできる。次は、8時間中の午前、午後1時間は10kgの米を上げ下ろし訓練。就職まで毎日。もちろん休みながら。

出来てる。出来るぞ。

 そして、次は脳トレにフォーカスしてみよう。

 ケモブレインのことを主治医に質問すると、「老化も原因である」というだけだった。脳に転移はないか調べてほしいと依頼し、結果何もなかった。しかし、症状としてずっとモヤっとした感じはあり。脳の働きも、抗がん剤受ける前とは何か違う。忘れやすいし思い出すのに時間がかかる。思い出すこともできず何日か後で思い出す。集中力の持続も弱くなってる。脳の働きが鈍いと感じられる。絶対これはケモブレインあるだろうな。「まぁいいか」で行こう。

 脳トレには漢字、計算、編み物をやってみた。しかし、やらないよりはマシであろう的な結果です。

仕事探しの苦闘と感謝の日々

 次は 就職。

 やはり常勤では自信がないのでパートで探してみた。生活もかかってるから、少しでも時給の高いところを選んで面接に挑みました。 

 面接当日、かなりの緊張でした。秋の夏日で、暑い中にスーツとジャケットを着ていると、汗だくになりました。緊張の脂汗もかき、もう倒れるかと思いましたよ。頭がぼーっとしてきて、言いたいこともはっきりと伝えられず、緊張のあまり口ごもってしまいました。

 病気のことも話した。ハローワークでは話した方が良いということで、正直に話しました。

結果、『病気を悪化させる恐れがあるため不採用』だって。

いくら政府で、長期療養者就職支援事業の政策があるとはいえ現実は厳しいです。1ヵ月落ち込みました。「一度位で」と思いでしょうが病み上がりにはあの面接は辛すぎるものがあります。 

 時給云々より先に自分を鍛えるために働こうと考えなおし、絶対、私のことを噂している前職場の上司に依頼しました。前職場に戻るのは嫌だったけれど。ありがたいです。本当に感謝です。本当に感謝します。噂も気にしないように自ら「ゾンビです」と開き直ってます。

入職して3ヶ月は足腰の疲労感がやばかったです。帰路の歩行が自宅に近づくにつれて左足が動かなくなっていき、ひきづるように歩いていました。膝の関節はギシギシ鳴り、「杖が欲しい」と想ったぐらい。いくら鍛えたからとて実際の労働の動きとはやはり違いますね。そんな痛みも乗り越えて現在の私は、ナースコールの部屋にまで小走りで行けるようになりました 50kg 以上の人間を2人で抱えて動かせるようになっています。すごいでしょう!帰宅後は動けませんが(苦笑)

ここまでの成長を支えてくださり、本当にありがとうございます。

私に関わってくれた方々本当にありがとうございます。

追伸:愚痴

 ケースワーカーに相談した時の愚痴を言わせてください。

身体障害者手帳の相談をしていたのですが「乳ガン、ステーシ4の先のビジョンみえてますか?」という言葉が返ってきました。正直、これには少々むかついてしまいました。

『もう先がないんですよ』と私に聞こえた。生活保護を受けずに自分で頑張ってみようとしているのに、なんともいえぬ複雑な気持ちです。

 ケースワーカーに相談する前にナースにも相談してみたのですが「介護保険使えばいいじゃないせっかく払ってるんだから」という言葉が返ってきました。『いくら払ってても無料じゃないし!』と言いたかった。

私の捉え方が悪いのかな?私の言葉足りなさや誤解があったのかもしれないと考え直そう。ポジティブ に考えよう。

彼らは私にきっと「もっと前向きに頑張れ」という気持ちを伝えてくれているのかもしれませんよね。

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